プラクシス:フィールドレコーディング「編集編」

釣ってきた魚をそのまま食べられる人は稀だ。食べるためには加工・調理して皿に盛る必要がある。フィールドレコーディングに置き換えれば、生の音が素材であり、編集はその加工・調理に相当し、皿がメディアにあたる。メディア観についてはプラクシス:フィールドレコーディング「記号」を参照してほしいが、各自が現代の条件に合わせて解釈と適用を更新していくべきである。

編集でまず心掛けるべきはアウトプットを明確にすることだ。素材をそのまま公開する行為は調理を行わない役割に近く、作品としての差異や価値は生まれにくい。捌き、味付けし、皿に盛ることで初めて編集は意味を持ち、制作は完成する。

ナンシーの“Listening”を参照すれば、聴くことは単なる受容ではなく場の再配分である。編集はまさにその再配分行為だ。どの音を立て、どの音を沈めるかの判断は、場における存在関係を書き換える行為であり、技術的処置はその判断を具現化するための「調理法」に過ぎない。

では、現在私が進めているシリーズを基に、編集の方向を示す。


“Colors”
このシリーズは聴覚に近い音像を生成し、差異によって聴取者側で実際のイメージを再生成してもらうよう設計している。収録はMSステレオで、Mid(正面)とSide(横)を合成してステレオイメージを作る。録りの段階で聴覚的な即時感を残すことを優先している。
“Trace”
このシリーズは知覚に近い音像を生成し、脳内で想起されるイメージを直接引き出すことを目指す。収録はステレオショットガン(ガンマイク+XY90deg構成)で、正面と斜め正面の左右を合成し、意味的・距離感的な輪郭を強調する。録りは既に表現の骨格を備えているため、素材のままでも記録・保存用途には十分耐える。

にもかかわらず、なぜ編集で味付けをするのか。それは「私が出したいもの」にするためである。実際に聞いた(感じた)音と、マイク→スピーカーを通した音は異なる。編集は物理音を聴覚音に翻訳し、聴者による再生成を誘導する作業である。
以下は編集上の「調理法」の概念的一覧(手順や設定は示さない)。

  • スパイク(インパルス)の除去:時間解像度の高いノイズを取り除き、聴取の焦点を保つための判断。
  • 不要な低周波の整理:感覚としては影響があるが意味を持たない帯域を抑え、場の輪郭を明瞭にする判断。
  • デジタルのチリチリ音の緩和:高時間解像度が生む不自然さを均し、聴取の連続性を保つ判断。

結果として、編集は再生環境に応じた「生音の再生成」を目指す。ナンシーの言うように、聴くことは場を再配列する行為であり、編集はその配列を作為的に組み替えて別の場へ差し出す実践である。技術は手段であり、本質はどのような場を提示したいかという選択にある。編集とは、場の存在関係を意図的に編み替えるための倫理的・芸術的な調理である。


編集前、MSデコードをしていない状態
編集後

本稿をもって「プラクシス:フィールドレコーディング」シリーズは終了する。理由は明快だ。私の役目は終わった。
読者各位にはここまでの思索と実践を各自の現場で反復し、解釈と適用を続けてもらいたい。ナンシーの問いは場を再配列することの倫理を投げかけ続けるだろうし、編集はその問いに応答するための個々の作法として残る。ありがとうございました。


筆:Mika Ojanen(ミカ・オヤネン)|フィールドレコーディング
カテゴリー:寄り道 / プラクシス